ヒーローの悩み方あれこれ

僕が小さいころのテレビの変身ヒーローは、みんな悩んでいた。その悩み方に共通する点があって、「オレはAでもない。Bでもない。どっちなんだ!」というものだった。

たとえば仮面ライダーは、人間と人造人間の間で悩んでいたし、ゲゲゲの鬼太郎や妖怪人間ベムは、人間と妖怪の間で悩んでいた。デビルマンは人間と神の間で悩んでいた。とにかく「AでもBでもない」というヒーローのオンパレードだったのである。

その中でも傑作だったのは、イナズマンという特撮ものに出てきた、「サナギマン」。このなんだかぶよぶよした不細工なヒーローは、とにかく中途半端だった。イナズマンというのが超人ヒーローなのだが、主人公の青年は、一気にイナズマンに変身することができなくて、一回「サナギマン」にならなければいけないという設定だった。で、このサナギマンだが、とくに必殺技があるわけではなく、敵からやられまくるのである。そしてそこで耐えて耐えて、もう、しんぼうできん!!となると、イナズマンに変身していた。

まるで、「AでもBでもない」という、悶々とした気持ちをそのまま表したヒーローだった。

小学生の僕は、このヒーローを見て、なんだか、「にがーい」気分になったものだ。あまりに弱すぎるし、かっこ悪いし、どうとらえていいかわからず、困惑してしまったのである。似たようなヒーローで、仮面ライダーに出てきた「ライダーマン」というのもいた。これもカッコ悪くて、弱かった。

なぜこんなヒーローたちが生まれたのだろう。こうしたヒーローたちを作ったのは、僕の父親に近い世代。青春時代を戦争ですごしたみなさんだ。日本が戦争に負け、それまでの日本人のアイデンティティを、突然アメリカ式に変えなければならなかった世代だ。「オレは日本人なのか?アメリカ人なのか?」という苦悩を抱えていただろう。それがどういう苦悩か、僕にはまったくわからない。しかし、変身ヒーローたちは悩んでいて、小学生の僕はそれを見せつけられた。

さて、同じ変身ものでも、最近のインターネット文化以後は、ちょっとヒーローの悩みは違う。攻殻機動隊、マトリクス、サロゲート、アバター、などの映画に共通するのは、「アバター」である。それは現実の自分と、ネット中で変身した自分は、ぱっきりわかれている。「おれはAでもBでもない。どっちなんだ?」という悩みは消滅して、「Aであるオレは、Bで活躍するが、Aにもどったときしんどい。あー現実ってたいへんだ・・・」という悩みに変わってしまったのだ。簡潔に言えば、

①昔のヒーローは、「AからBへのプロセス」で悩む
②ネット社会以後のヒーローは、「AとBのギャップ」で悩む

なのである。僕は小さいころを①のパターンのヒーロー観で育ってしまったので、②のパターンがまったく受け付けない。マトリクスやアバターを見ても、なんだか「胡蝶之夢」の話を読んでるみたいで、まったくリアリティがない。「人間が認識する世界は、すべて脳がつくりあげたもの」という、0オリア的な単純なモデルで片づけてしまうことが、あーつまらん!と思ってしまうのである。

僕はこう考える。アバターの中でどんなに羽ばたけても、現実の自分から逃げることはできない。現実の世界で、自分をアバタ-のヒーローに近づけるためには、いろんな苦労と直面しなければならい。しかしそれが「生きる」ということだし、その中で創意工夫して「あがく」ことも、人間は楽しめる、と。

さて、僕がなぜこんなことを考えたかというと、映画「第9地区を見たからでした。「AとBのギギャップ」ではなく、「AからBへのプロセス」で悩む映画でした。これが、めちゃくちゃ面白かったし、新しいな、と思いました。

その気持ちの根底には、もしかしたら、小学生のときの「苦悩するヒーロー」の刷り込みがあったからかもしれません。

おもしろい映画なので、みなさんにもお勧めです。

コメントは受け付けていません。