ゲーテアヌムを見に行きました。 <5日目>

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今日は一日オフなので、チューリッヒからバーゼルまで電車で移動し、シュタイナーの「ゲーテアヌム」を見てきました。

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ひとことで言えば完璧。ひとりの人間の宗教的なビジョンが、造形に転化して、巨大な空間を作り出している。シュタイナーの芸術家としての造形能力(いわゆるデッサン力)は高くないと思うのだが、問題はそこではない。

宗教をモチーフに自分の表現をする芸術家はたくさんいる。
しかしシュタイナーのように、自分の宗教を作り上げ、それをさらに造形言語で表現した芸術家は稀である。

そこに、僕は感動してしまう。

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ゲーテアヌムの迫力は、建物だけでなく、それを囲む村が、すべてその宗教的な造形言語で覆われていることである。

現在のゲーテアヌムは放火によって新しく作られた2代目である。1代目は典型的なアールヌーボー様式で、それはそれで見事であった。しかしいったん消失することで、コンクリート作りの、堅牢で重厚な、新しい様式の建物として生まれ変わった。

芸術家ならだれしも、自分の表現をすべて捨てて、無から出発することを夢想するだろう。その試練をゲーテアヌムは建造物としてドルナッハの地に刻印している。

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ゲーテアヌムを見たあと、バーゼルまでもどり、ティンゲリー美術館に行った。戦後のマシンアートの流れの中で語られることが多いティンゲリーだが、残念ながらゲーテヌアムを見たあとだと、迫力にかける。

ホワイトキューブの空間に置かれた、アート。

この典型的なプレゼンテーションが、ゲーテアヌムの、壁のすべてを人力で削り、色を塗り、曲線を作り、そしてその中に作品を置くという「徹底的な芸術空間」にくらべると、なんとパターン化したものか。ゲーテアヌムの衝撃が収まったころに、ティンゲリーについては、考察しようと思う。

20世紀型の個人がフィーバーする芸術家のパターンと、シュタイナーのように強烈な思想・宗教を作り上げ、その後の多くの人の心をしばる芸術家のパターン。自分はどちらになりたいのだろう。あるいは、何パーセントが前者で、何パーセントが後者なのだろう。

意外かもしれないが、ゲーテアヌムに僕が近い感覚を持つ場所は、大阪の国立民族学博物館である。梅棹忠夫は、宗教家で芸術家なのかもしれない。

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