技術と芸術とツイッター

芸術家には二種類いる。
自分の表現に疑問を持たない者と、
自分の表現に疑問を持つ者、
である。
前者はピカソタイプ。
後者はデュシャンタイプ。
である。
疑問を持つタイプは、ときに自分の表現のメカニズムについて考える。
マシンエイジ以前は、そういうタイプがいたとしても、それを言語化、図式化するための数学、映像ツール、設計方が発達していなかったので、
圧倒的に絵画を描くのがうまい、という、一種のフリークス的才野に、飲み込まれてしまった。
しかしマシンエイジ以後の写真からCGにつながる、人間の表現の盗賊的テクノロジーは、見事にフリークスたちのお株を奪い、機械で表現できない表現、という、泥臭い世界に芸術家を追いやった。
この状況、表現に疑問をもつタイプの芸術家には好都合。
なんとなれば、キュビズムのように、まったく絵なんて描けない絵描きに、ウンチクという絵の具を与えたし、
ときには疑問を検証する、実験機器を与えたからである。
そんな時代になって、もう長い。
表現者はいまだに新しいテクノロジーが、自分をどこへ追放するのかビクビクし、
あわよくば、大逆転のための起爆剤にしてやろうと、たくらんでいる。
そんなことをいっさい考えない、まだバルビゾンをやってるクラシックな芸術家もいるが、つまんないので無視。
作戦を立てすぎると、明和電機のようにおかしなポイントまで来てしまうが、これは性分。
結論。
芸術家が自身の表現を厳密に考えるほど、テクノロジーを無視できなくなる。
以上、
なぜに土佐信道は、最近、ツイッターをやっているのか、についての長々しい言い訳でした。
(ケータイからべた打ち。文字校正なし。)

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