SF映画の中の未来 

現在発売中の情報処理学会の学会誌に、「芸術の未来」というお題でコラムを書きました。「道具(ツール)」と「物語(コンテンツ)」から読み解いたコラムですが、最初に提出した文章はボツになりました。せっかくなので、そちらのボツ原稿をご紹介します。

以下。

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SF映画の中の未来

品川プリンスホテルの映画館には、よく映画を見にいく。とりわけSF映画が好きで、ビールとポップコーンを買って、どっぷりと目の前のフィクションの世界にひたるのが好きだ。最近のSF映画でたびたび登場するのが、立体ディスプレイ。発光するさまざまなデータや操作パネルが、目の前に浮かび上がり、それをトム・クルーズのようなハリウッドスターたちが、ひっぱったり、回したりして操作する。これがなかなかかっこいい。

あるとき、VRの展示会に行ったとき、それに近い立体ディスプレーを体験できるコーナーがあった。これで自分もトム・クルーズだ!と、腕を伸ばして空中のデータをいじくってみたのだが・・・・感想は、「腕が疲れる」。

これはあたりまえで、人類はコンピューターを疲れないように操作するために、指先だけをちょちょいと動かす「キーボード」や「マウス」を作った。重たい腕は机のうえにデンと置いておけばいい。ところが立体ディスプレイを操作するためには、その重たい腕をのばし、ぶんぶんと動かさなければならない。これはもうスポーツトレーニングだ。トム・クルーズは、映画の撮影で、ぜったい腕に筋肉がついたと思う。

あと、SF映画の定番で、コンピューターやロボットが人間を襲うというのがある。ターミネーターが有名だが、こういう映画の影響なのか、「シンギュラリティ、怖いわあ・・・」と眉をしかめる女性にときどき出会う。そうかもですねー、なんて話を聞いていると、「でも掃除ロボットのルンバって便利ね。これで掃除しなくてすむ。」と言っていたりする。あなたはテクノロジーが怖いの、信じてるの、どっちなの?と首をかしげてしまう。

もちろん機械が人間を襲うことはある。第二次世界大戦は、まさに機械戦争であり、さまざまな殺人機械が人間を襲った。しかしそれを操作していたのはすべて人間である。そして銃にしろ、戦闘機にしろ、それらは目的がシンプルな「単機能」の機械だった。しかしロボットは「単機能」ではない。コンピューターとメカトロが合体した複雑な機械だ。つまりロボットは壊れやすく「メンテナンス」がたいへんなのである。

「メンテナンスをするロボットを作ればいいじゃん」と思うかもしれないが、それは医者がいまだに自分のガンを治せないのとおなじで、メンテナンスをするロボットは、修理するロボットに関するあらゆるデータと、さらに修理のための複雑なしくみを持たねばならない。これではどんどん壊れやすくなってしまう。SF映画はビジュアルだけで「しくみ」を表現する必要がない。だから現実的な限界をすっとばした未来のストーリーが描ける。

さて、その品川の映画館の下にはフードコートがあり、あるとき「青いカレー」を売っていた。味はココナッツカレーでおいしいのだが、とにかく見た目がまるでミントのアイスクリーム。写真をとってツイッターで公開したところ、まるで滝のように「うわ!まずそう!」というリアクションが流れつづけた。

ははん、なるほど、と思った。ケータイ電話やスマホで伝達できるのは「音」と「映像」だけで、「におい」や「味」は伝達できない。インスタグラムにアップできるのは「おいしそうな画像」だけであり、「おいしさ」という味は伝えられない。これとSF映画は似ている。トム・クルーズの立体ディスプレーも、ターミネーターの殺人ロボットも、「音」と「映像」という限定された情報だけで表現された未来だ。もし、「におい」や「味」の未来について感じるためには、それが伝達できるスマホが普及する必要があるが、それは現時点では不可能だ。つまり、

「未来のイメージは、それを伝えるメディアによって限定される」

のである。SF映画で未来について楽しみながらも、この落とし穴については、気をつけなければならないと思う。

 

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