不自由の中の自由。

昨日、ツイッターで

「働きたくない。自由でいたい。」という理由で、アートを選択する人がいるが、アートで自由を獲得するには、メチャクチャ働かないと、いかんのだよ。

とつぶやいたら、117人もの方がRTをされて、その日のランキング2位になっていた。

それだけ、ツイッターを見ている人の中に、美術系、フリーランスの方が多いのだなあ・・・と感じました。

僕はアートの世界にどっぷりつかっていて、それを商売にしていますが、若い人の中に、モラトリアムを伸ばす口実として「アートやってる」と言ってる人がいることにカチンときてたんですね。

「おれは自由でいたい。だからスシ職人になる」という人はあまりいない。スシ職人になるには、大変な修行を積まなければならないし、仕事もきびしそうだから。でも、、職業・芸術家になるには、同じくらい、テクニックの修行を積まなければならないし、稼ぎ続けるために仕事をしなければならない。やっぱり職人の世界なんです。

美術大学って、日本にほんとうにたくさんあって、そこで毎年、何万人もの学生がアーティストになるための職業訓練を受けているわけです。ただ、中には、
「教養としての美術教育」を受けてる方もいる。僕は別にそういう人にまで厳しくいうつもりはありません。芸術の豊かな発想を、違うビジネスや、家庭生活に応用することもあるからです。

そうではなく、「オレ、アーティストになりたいんだよね」って、少しでも公言してる人が、人生の逃げとしてアートを使っていたとしたら、ムカっとして腰の刀を抜いて、ずばっと切りたくなるんです。

逃げとしてアートを使っている人の悲劇は、そのまま年をとったら、取り返しがつかなくなる、ということです。手に職がない、お金もない、という大人になることは、悲しいことなんです。

ちょっと話がずれますが、松本零士さんが、若い漫画家やアニメーターの人たちが給料が安くて生活できない、ということに対して、

「漫画家とは、”永遠の浪人だ”。食えないのは当たり前。僕だってこの年だけど三日寝てない」

とおっしゃってました。もちろん、産業構造として矛盾があって、漫画家やアニメーターが食えないのは、問題がありますが、それとは別に松本氏が言いたかったのは、自分が選んだクリエーターの道に対する「覚悟」があるかどうか、ということだと思います。

芸術は人の発想やイデオロギーを開放して、ほんとに精神的に自由にしてくれます。それはそれは魅力的な世界です。しかし、その魅力の伝道師になるとするならば、そこには、たくさんの制約と向き合う現実があります。ピエロは人を笑わせますが、ピエロ本人が楽観主義者ではないのと同じです。

ただし。制約が多いからといって、自由ではない、ということはありません。むしろ制約の中で創意工夫して作品を作っていくことの方が、発想が膨らみ、「自由度」が増える、ということになります。それはとても楽しい世界です。モノを作る人間という生物の醍醐味だと思います。

自分の活動もふくめて、そうした面白さが、人々に伝わったらよいなー、と思います。

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