ウメサオタダオ展を見て

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明和電機アトリエは今週も大掃除祭り。先週は、工房スペースの機材や材料などをかたづけまくりましたが、今週は事務スペース。古い書類や、必要のなくなった電子機器なんかを、えいや!と捨てまくってます。

書類に関しては、電子化のおかげで捨てれるのがうれしい。SCANSNAPを使って、昔の書類を片っ端からパソコンに吸い上げて、シュレッダー。これがないと捨てれませんでしたね、紙類は。

震災のこともあって、今年はクラウドに情報を移すかたも多いでしょう。明和電機も、さ来年の20周年をふまえて、これまでの資料をどんどん電子化してクラウドにあげようと思っています。そのためのテクノロジーには興味深々です。

しかし一方で、僕はもともと絵描きになりたかったし、バーチャルではなく、リアルなモノ作りに一番確信を持てる体質。思考をまとめる作業は、すべてペンでスケッチを描く、ということでおこなっており、はたしてパソコンにデータを全部いれたとしても、活用できるのかな・・・という疑問もどこかにある。

うーん、悩ましい。ここは発想を変えて、パソコンのなかった時代の情報の整理についてみてみよう、ということで、先週、大阪の民族博物館(=民博)で開催されている「ウメサオタダオ展」を見にいきました。

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僕にとって民博は、明和電機を始める以前、「自分ってなんだろう、自分の表現とはなんだろう」と悩みまくっていたときに、そこを突破するヒントをくれた場所。民博がなかったら、明和電機の「魚器NAKIシリーズ」は誕生していなかったし、そもそも、明和電機も生まれてなかったかもしれない。

その民博を作り上げた中心人物が、梅棹忠夫氏。僕は民博に通い詰めていたころ、梅棹氏の書籍を一冊も読んだことがなかったが、その空間展示に込められた思想に、どっぷりと影響を受けた。

梅棹氏は、とにかく「カード式思考」。あらゆる出来事、ひらめき、資料を、「一枚のカードに、一枚のアイデア」という形でメモっていた。よく文房具屋さんでみかける「京大式カード」は、氏のやり方を文具メーカーが商品化し、一般化したものである。展示には、膨大な量のカードが展示されていた。

たとえば梅棹氏は本を書くとき、このカードをああでもない、こうでもないとならべ、最終的にホッチキスでつないで文の流れを作る。このホッチキス止めの紙が、ちょうどよろいの「こざね」に似てるので、こざねと呼んでいた。

膨大な量のカードに情報を手で書き、それを膨大な時間をかけて手で編集して、まとめる。なんと気がながいことか。いまならスマーフォンとかにちゃちゃっとメモをして、あとでパソコンのデータベースでタグをたよりにまとめりゃいいじゃないか!・・・と思ったんだけどちょっとまてよと。

その膨大な作業量という肉体的な制約が、実は逆に思考を深めるトリガーになっていないか。僕もそうだが自分が書いたメモや絵が、脳にひっかけるタグの力はすごいし、紙というメディアの空間に展開できる能力もすごい。

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とにかく僕はアイデアをまとめるときにスケッチを使うので、これまで描いてきた絵が5000枚以上ある。これらはもちろん電子化しようと思うのだけど、だからといって、タブレットPCでスケッチという気分にはなれない。それはくさい言葉だけど、やっぱり「愛」を自分が描いたリアルな絵には感じてしまうからかな。大切にしたくなる。大事なものは記憶に残る。タグのフックも強くなる。それを眺めたり、順番を入れ変えたり、する作業は、梅棹氏のカードではないけど、大変だ。でもその肉体に残った疲労感が、どこか、思考の確信へとつながっていくのは、間違いない。

電子化はどんどん進むし、それを僕は望んではいる。でもだからこそ、今はちょっと立ち止まって、「電子化すべきもの、すべきでないもの」を考えたい気分なんです。ね。

























 

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